秋川渓谷逃避行(2021/9)

日本の自転車泥棒

「日本の自転車泥棒」という映画を知っていますか?

杉本哲太が演じる元競輪選手が自転車の窃盗を繰り返しながら旅をするロードムービー。

大きなストーリー展開はなくただ黙々と憑りつかれたように自転車をこぎ続けるシーンが続く。

というと退屈な映画に聞こえるかもしれません。

しかし哲太がチャリンコを走らせる映像はまばたきをするのも惜しいくらいに引き込まれてしまいます。

そこには哲太とチャリの他に美しい日本の風景があるからです。

わたしはこの映画を観た次の日に自転車を購入しました。

自分の足でペダルをこぎながら、日本各所にある絶景を自分の目に焼き付けたかったから。

ようやく走り出した、2年後

自転車を買ってから時は過ぎ、いつの間にか2年ほど経ってしまいました。

今までこの自転車をまたいだ回数は数えられるほど。

歩くには少し遠い飲食店に行く時と、近所のスーパーでの買い物をちょいと急ぎで終わらせたかった時など。

もちろん卵とか納豆、マイクポップコーンを買いに行く途中にわたしが感動できるほどの景色はありません。

もしあったとしてもあまりに生活圏内のためにうっかりと素通りしてしまうことでしょう。

このままではあの夜に映画を観て感銘を受け自転車を購入した意味がありません。

そこでとうとう決心しました。

3時間ほどで到着する場所を目的地として一度自転車で遠出してみようと。

まだ行ったことのない場所で、なるべく自然が多くて、あと温泉(好きなので)があるようなところ。

グーグルマップを見ながらいろいろ調べた結果、目的地は秋川渓谷にある日帰り温泉に決めました。

秋川渓谷までの道のりで思考が停止

ご存知かと思いますがグーグルマップでは目的地までの所要時間を調べることができます。

自宅から自転車で3時間10分ほどと表示されたこちらの日帰り温泉。

結果から先に言うと到着するまでに4時間半ほど時間がかかってしまいました。

びっちりとその日のスケジュールを計画するタイプの人間ではないのですが、この1時間以上のタイムロスは「〇時頃にあれして〇時頃にこれして」とある程度考えていた初チャリ旅の構想をいとも簡単に狂わせてしまいました。

敗因は何だったのでしょうか。

びっくりする人もいるかもしれませんが、長時間自転車で移動した経験がなかったわたしには休憩時間が必要という発想がなかったのです。

少し考えれば当然不可能と判断できそうなものですが、出発前のわたしは「自転車をゆっくりとこぐ」ことを「休憩のようなもの」と勘違いしていたためにほとんどノンストップで目的地までたどり着けると考えていたのです。

しかし実際に自転車で走り始めるとすぐに「そんなん無茶だ」と感じたし、1時間近く走った頃にはほとんどバテてしまいました。

目的地までの3分の1にも到達していない段階で、体力の限界が近づいてきたのです。

それ以降は何も考えられなくなりただ何かの罰を受け入れるかのようにペダルをこぎ続けました。

あまりの体力のなさに情けない気持ちにもなったのですが、思考が停止しているためその情けなささえもすぐにどうでもよくなってきたのを覚えています。

それどころか得体の知れないおかしさがこみあげてきて、ちょっと一人でにやけてしまっていたかもしれません。

ただこの時に思いついたちょっとした発見のおかげで、わたしは引き返すことなく目的地までペダルをこげたのです。

その発見というのが「逃げている」という妄想。

それだけ?とバカにするかと思いますがこの妄想によってどれだけ失っていた体力を呼び戻すことができたか。

たとえば何か大きな悪事を働いた直後、誰かに追われているという設定で逃げるように自転車を走らせるのです。

それだけ?

それだけ。

立ち止まればそこで終わり、捕まってしまいます。

そう思い込んでペダルをがむしゃらにこぐのです。

すぐにあほらしくなってやめそうな戦略なのですが、ちょうどよく思考が停止しているために上手く自分を騙し続けることに成功しました。

その日の新奥多摩街道には、緊迫した気持ちで息を切らせながら必死に自転車で走らせるわたしがいました。

誰にも追われてなんていないのに。

秋川渓谷 瀬音の湯

そんな逃亡ごっこが功を奏して、諦めるようなこともなく自転車は多摩川を横断しました。

そしてとうとうわたしの目に入ってきたのは、さまざまなお店の名前に付けられた「あきる野店」という文字。

テンションが上がるほどうれしい気持ちになったのも束の間、この辺りの土地はめちゃくちゃ微妙な坂道が続いていました。

今回初めて経験してわかったのですが、長時間自転車をこいでヘロヘロになっている身にとってはちょっとした坂道、一般的にはほぼ平坦と言われる程度の坂道さえもとてつもなく苦戦するということ。

これががっつり角度のついた坂道ならこっちもすぐに自転車を押して歩こうって気持ちになるんですけど、本当に微妙な坂道、ほとんど平坦な坂道の場合はどうしても自転車を降りるのに屈辱を感じてしまいます。

そして何よりもすれ違う自転車の方々が誰も自転車を降りないというのが私にとってとても気になるところでした。

なんせ坂とは言えないような坂で苦しい顔をして自転車を押すわけですから。

それを自転車に乗ったおばさんや中学生、そして老人にさえも抜かれていくのです。

「違うんです、3時間くらい自転車こいでてへとへとなんです。」なんて言い訳も聞いてもらうことはできません。

JR五日市線の終点でもある武蔵五日市駅が見えたころには体力は底をついてほとんど廃人の状態。

武蔵五日市駅

あきる野の町をチャリを押してうろつくゾンビはその後のろのろと山道を登っていきます。

しかしそんなチャリに乗ったり降りたりを繰り返しているバカゾンビにも秋川渓谷の自然は優しく、美しい景色で迎えてくれます。

秋川看板
秋川渓谷

ペダルをこぐのはしんどいけれど自然に包まれながら心地よい気分で目的地となる瀬音の湯へ到着しました。

駐輪場に自転車を停めてふらふらと歩きながら入口へと。

到着の感動みたいなものがもうちょっとあるのかと思いきやそんなものはほとんどなく、酷使した体を早く温泉で癒そうと考えていました。

知らない映画のロケ地になった石舟橋

びびった。

何にってお風呂あがりに森林の中を自転車で走る快感にです。

あまりの気持ちよさに意識が飛びそうになってしまった。

お風呂あがりに森林を散歩も絶対気持ちいいし、お風呂あがりに自転車で走るのも気持ちいいもんね。

その両方を同時に体感して気持ちよくないわけがない。

だいぶ緩んだ顔をしてチャリを走らせている途中で川にかかる橋を見かけたので停車して散策することに。

瀬音の湯で温泉に入った後、来た道を引き返しているためその橋は行きの時にも見かけていたはずなのだが、その際には何も感じなかったし自転車を置いて見物しようなど一ミリも思わなかったのが不思議。

温泉につかり体が休まることで心に余裕が出てきたのもあるし、そもそも美しい風景を見たいというのが本来の目的であったのをようやく思い出したというのもあったのでしょう。

石舟橋
石舟橋
石舟橋

この橋は石舟橋という名前だそうで、橋の付近には映画「五日市物語」ロケ地と書かれた看板があった。

作品は知らなかったけどもしも機会があればこの辺りの風景がどのように映っているのか興味もあるし一度観てみたいと思いました。

橋の途中で川を見下ろしたり心地よい風に吹かれたりしていたけど、向こう側からけっこう人通りがあったのですぐに退散。

石舟橋

自転車を停めた場所まで戻って写真を撮ってからサドルにまたがり来た道を戻りました。

尻は痛いが風は気持ちいい。

八王子で一泊

その後すぐに来た道からは逸れて秋川街道という道を軽快に自転車で走りました。

目的地は八王子。

また同じ時間を費やして同じしんどさを感じながら帰宅するのは絶対に無理だと思っていたので安いビジネスホテルを予約しておいたのです。

八王子ならあきる野から1時間ほどでささっと行けてゆっくり休むことができる。

しかしこれもまたけっこう甘い考え。

日帰り温泉で体は完全に回復、・・・するわけがなかった。

十数分が経って、風呂上がりの心地よいサイクリングの後に待っていたのはさっき抜け出したはずの地獄。

ペダルをこぐ足にちっとも力が入らない。

これは本当に自転車なのかと疑ってしまうほどに車輪が回らない。

そんな秋川街道の途中には新小峰トンネルという長い(車ならすぐなのかな?)トンネルがあり、出口が見えないまま暗い道が続きました。

さっきまで町をゆっくりと徘徊するゾンビだったはずが、このトンネルの中では恐怖心からペダルを全力で踏み続けていました。

グーグルマップで見た所要時間の1時間はとっくに過ぎた頃、ようやく八王子近辺の住宅地に。

ここで学んだのは「知らない住宅地ってめっちゃ迷う」ってこと。

予約したビジネスホテルに着いた時には日は落ちてだいぶ薄暗くなってきていました。

朝ご飯を食べながら反省会

ホテルの部屋はとっても簡素。

でもこの侘しい雰囲気、嫌いではないです。

妄想の話ですが自分は逃亡者。

そんな立場にぴったりしっくりとくる部屋なので、妄想のリアリティもぐんっと増します。

カードキー
ホテルの部屋
ホテルのユニットバス

適当に夕食を取って日帰り温泉で買った入浴剤を入れたお風呂につかればもうベッドに横になるだけで明日になりそうな疲れ具合でした。

翌朝、ホテルの朝食を食べながら考えたのは「チャリ旅にはしっかりと休憩時間を設ける」という反省点。

しかし大きな収穫もありました。

それが「逃げているという設定で旅をする」というもの。

これだけで緩い旅行に緊張感やスリルというスパイスが加わり一気に刺激的に変化することがわかりました。

今後の旅行にも使える大発見だと思いました。

ホテル朝食